「生きる悲しみ」に効く登山

「どうして山なんか登るのか」

登山にまったく興味のない大学生に言われました。受け取り方によっては失礼な言い草ですが、仲がいいのでイラっとするようなことはなく、むしろどう答えたものかと考えされられました。「楽しいから」という単純で当たり前の回答ももちろんありますが、それだけでは大学生は関心を持ってくれません。元塾講師としてはできれば感心もさせたい。その晩、寝ながら考えました。

いくつか、関係なさそうで関係のある話をします。

私は、スラックラインが好きです。気になる人は調べてもらいたいですが、そういうスポーツがあると思ってもらえたら大丈夫です。誰でもすぐに始められて楽しい上に体幹トレーニングにもなるのでぜひおすすめしたいですが、いちばんの魅力は、こんなのできないよと思えることがちょっと練習すればすぐにできるようになるところです。

私はそのスラックラインで、腰痛が治りました。
痛めたのは20代も半ばを過ぎたある年で、そんなに重くもない荷物を持ち上げてグキッとなりました。疲労がたまっていたようです。ぎっくり腰ではない印象で、強烈に痛いわけではありませんがずっと尾を引く痛みでした。日常生活に支障が、ないといえばないしあるといえばあるという感じでした。

やりたいことがあって仕事を辞めた直後でした。いつでも休める身ではあったのでその点はよかったのですが、気持ちの面ではさっそくの挫折でした。日常的にコルセットをまき、日がな寝て過ごす日々が続きました。

一年が経ち、まだ痛みがなくならないので、いよいよ気分は絶望の域にさしかかっていました。このまま一生治らないんだ、と。体が資本だという言葉がこれほど身に染みたことはありません。

またしばらく経って、ようやく「腰痛とちゃんと付き合っていこう」という前向きな気持ちになってきました。専門家のすすめもあって、腰回りの筋肉を鍛えることにしました。折よく、流行り始めていたスラックラインを知りました。見た瞬間にぴんときました。すぐに購入にしました。

運のいいことに、近所の公園にちょうどいいスペースがあったので、毎日のように練習にいきました。筋トレのためというよりは、その楽しさに夢中になりました。私は運動神経がよくない方なので時間はかかりましたが、少しずつ技も決められるようになりました。ときには、近所のおじさんに声をかけられたり、小中学生とたわむれたりしつつ、秋と冬が過ぎていきました。

ぴたりとなくなるということはありませんでしたが、明らかに痛みが軽くなりました。治りそうだ、という手応えをはじめて得られました。気分もかなり前向きになりました。自分は心を病んでいたのだとやっと気づきました。痛みも途中からは心因性のものだったかもしれません。

それから、部活でもしているみたいに練習に打ち込んだことで、懐かしいようでいてすごく新鮮な感覚がありました。

こんなふうにスポーツに打ち込んだのはほとんど中学生以来です。練習すればするだけ上達するという感覚は、もちろん働いているときもありましたが、体のこととなるとまったくの別物です。あれはできるようになったけどこれはできない、どうすればできるようになるのか、という試行錯誤は身体との会話でした。全然できなくて悩んでいたのに一晩寝たら翌日あっさりできたということもありました。人の身体は不思議です。

そういう経験を通して、こんなことを言うのは恥ずかしいのですが、自分のことがちょっと好きになりました。身体を動かしたり、努力したりすることは本当に大事なことだ、とかいう当たり前のように聞こえることをしみじみと実感していました。ちょっと鬱っぽかった時期の、昔の自分にも教えてあげたいと思いました。

本題に戻る前に、もうひとつ別の話をします。くどいようですが、関係ないようで関係ある話です。

塾講師の仕事のひとつに「他の先生のネタを盗む」というのがあります。まさに「見習い」です。人のいいところを褒めたり取り入れたりできる素直で柔軟な人はとてもいい先生になれます。(私は「おれのやり方をお前に教えてやる!」という勘違い先生のせいで病気になりかけました。あの人はもうほんとに「天災」としか言いようがないくらい困った人でした。)

講師の力量は、子どもたちのうなずき(共感)を得られる言葉をどれだけ語れるか、にかかっています。それができないとわかりやすい説明もできるようになりません。

たぶんこれが私の最初の「見習い」だったと思いますが、まだ1年目のころに「いつか自分も使ってみよう」と思ったフレーズがありました。たしか、小学6年生を相手に話していたと思います。

「人ってみんな、きれいなもの、美しいものが好きなんだよ。たとえば、きらきらしてきれいなもの見たら、なんとなく取っておきたくなるでしょ。子どもも好きだけど、大人も宝石好きじゃん。絵を見る、写真を見る、高いところに登って景色を見る、きれいだなーって思うと、気分が良くなる。なぜなら、きれいなものが好きだから。それから、本を読んだり映画を見たりすると、いい話だなって思ったり、よし自分もがんばろうって前向きな気持ちになったりする、あれも、美しさに対する感動なんだよ。」

何年かして、ちょうどいい話の流れがあったので中学生にこの話をしたときは、こんなふうに付け加えました。

「それから、努力する人も美しい。見る人を感動させます。こないだのオリンピック、みんな見てたでしょ。スポーツだけじゃない、勉強も同じです。そう、つまり、みんなも美しい!」

生徒たちは笑いましたし、私も笑わそうと思って言いましたが、まぎれもなく本心です。

唐突に結論を言いますが、人が山に登りたくなるのは「美しさを確認しにいくため」ではないかと思います。

登山好き界隈では「自然が好きだから」という言葉をよく聞きますが、その理由で登山が好きだと言われても私は少しも共感できません。自然が好きとかそんなの当たり前じゃん、と思うからです。寝ることが好きです、と同じくらいの「当たり前じゃん感」があります。

でも、「自然に触れられる」というのが登山の魅力であることは間違いがなさそうです。同じように「体を動かしたいから」や「いい景色が見たい」というだけの理由で登山を好きにはならないと思いますが、それらもまた間違いなく登山の魅力です。

山の上から見る世界はまさに「美しい」です。

心が洗われる、という言い方をよくしますが、これは自分が汚れていることを自覚した表現です。つまり、日々の生活でみんな心が汚れているんです。疲れています。傷ついています。病んでいます。世の中ほんと汚いことばっかりだな、なんてことを思ってたりするわけです。でも、だからこそ、山の上に立つと世界の美しさに安心します。

美しいのは景色だけではありません。

ちっぽけな自分、という言い方もよくしますが、これは自分がちっぽけな人間であったとしても許されるんだ、という安心感の表れです。人との競争に勝てなくても、完璧で立派な人物になれなくても大丈夫なんだ、という守りの気持ちです。でも一方で、努力したいと思っている自分のことも知っています。ここまでがんばって歩いてきた自分もまた美しいんです。

世の中汚いことばっかりで、自分も汚れっちまったけど、でも世界はこんなにも美しい。

登山とはそういうことではないかと思います。

戻る